涅槃は遥か先 

気になった事をダラダラと書いてみようと思っています。

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ちばあきお著、キャプテンという漫画があります。


私自身、面白いと思う漫画というのはたくさんあります。それはもう無数に。


しかし私の個人的ランクの最高位に認定される漫画は4作にとどまっています。
六三四の剣」「スラムダンク」「柔道部物語」そして「キャプテン」です。
これらには少なからず共通点があります。


・スポーツをテーマにした漫画であること


・主人公が努力により成長する過程が描かれている事


・いわゆるサクセスストーリーである事


・少年漫画であるにもかかわらず安易な魔球的要素が無い事


この4つ以外にもいろいろあるでしょうが、これが大きく理由として挙げられます。
更に上記4点を満たしていてもこの4大漫画に入っていない漫画もありますが、それらも好きな漫画には変わりありません。
「はじめの一歩」「ルーキーズ」「エンジェル・ボイス」「帯をギュッとね」「ガラスの仮面」「バリバリ伝説

などがそれにあたります。


はっきり言って基本的にこの種の漫画が大好きなんでしょうね。書いていてもう一度読みたくなるものばかりです。
たぶんこれにあたるけれど挙げていないものは読んでいないだけです。読んだら好きになります。
間違いありません。

 


かといって魔球系が嫌いってわけではないのです。「あしたのジョー」だって「巨人の星」だって「黒子のバスケ」も好きですよ。

でも、何となく違うものとして線引きしたくなるのです。
「はじめの一歩」は微妙なところでしょうか・・・

 


その中でも、群を抜いて「何も持ってないけれど、頑張る事で成功できる」と声高に宣言している漫画というのが「キャプテン」なのです。
夏木六三四も桜木花道三五十五も(それぞれの漫画の主人公ですが漢数字が多すぎる・・・)あふれる才能が有って、更に好きなスポーツ(武道)に懸命に打ち込んだ事によって、そのあふれる才能があふれまくった!その結果やったぜ!っていう。

100m走の桐生君と同じです。


これの重要なところは才能だけでやったっていう安直さが無いところもポイントなのです。死ぬほど頑張った側面がとても重要です。

 

対して、「キャプテン」の谷口君、丸井君(「キャプテン」は4代の歴代キャプテンのお話で、1代目と2代目の主人公です。)は最初、明らかにヘタクソなのです。


谷口君に関しては強い中学校では球拾いばっかりだから野球が出来そうな弱い中学校に転校してきたし、丸井君は谷口君を苦悩させた上にレギュラー落ちをしています。


またその丸井君がレギュラー落ちする際の丸井君のエピソードがまた良いのですが・・・

 

 

ところで。現在の中学校というところは部活をやりすぎたらいかんのだそうな。
やりすぎたら、教師の就労時間がひどい超過になるとか送り迎えが保護者の負担だとか・・・


まあいいんですけど・・・

 

 

私が上記の漫画において何に心を奪われるかというと、それは人より頑張ったらその努力は完全な形で裏切ったりしないってところです。


それは必ずしも完全なる勝利では無くても、善戦できたとか相手を苦しめたとかそんな形でも努力が裏切るってことはない事を教えてくれているのです。

 

 

かつて王貞治がこのような名言を言ったと言われています。


「努力は必ず報われる もし報われない努力があるのならば それはまだ努力と呼べない」


人によってはこれは成功者である王選手だから言える、という解釈をする人がいますが私は違うと思うのです。
「報われる」ということが「ある」か「ない」かで考えればそういう解釈もあながち間違いではないと思います。
勝利という基準を満たしていないから報われていない。優勝していないから報われていない。日本一では、世界一では無いから報われていない。


それが当てはまる人もいるでしょう。確実に王選手はそのレベルです。
ですから王選手においては言葉そのままの意味で良いのでしょう。

 


「この試合に勝ちたかった、負けてしまったから報われていない。」それなら「努力と言えない」のです。


「この試合に負けてしまったけれど、勝者をあそこまで苦しめられたのだから日々の練習のおかげだ。」は、報われたと思っているから、「努力」と言えるのです。

 


最後の落としどころに満足できればそれは「努力」と言えるって言っているのと同じです。
負け犬の言葉遊びと断じる人もいるでしょうが、真剣に何かに向けてその準備をしてそれが適わなかった時、報われなかったと思うだろうか?という話です。


ということは逆説的に考えると王選手の言葉は、「たとえ負けたとしても後悔しない準備」を努力と呼んでいるという意味ではないでしょうか。


負けた時「あの練習をこうしていれば・・・」「素振りをあと100回していれば・・・」と考えるのだったらそれは努力ではないと言っているのだと思います。


これは大乗仏教の教えに似ています。どんなにつらいことがあっても乗り越えられる精神力を養っておけば何が起きても動じないという考えです。
話が「大乗仏教」とか・・・本題からそれまくっていますが・・・

 

 

「キャプテン」の舞台は中学校です。


中学校で、谷口君や丸井君は自主的に「たとえ負けたとしても後悔しない準備」を行って試合に臨む。その結果報われたと感じうる(作中で報われたと考える描写があるわけではありません)結果を得て墨谷二中を去っていくわけです。


それは、制限なく「負けたとしても後悔しない準備」ができる者のみに許された結果としての「努力」です。


その「努力」ができないように学校側で計らうとはなんとも愚かな・・・


「努力」ができる土壌を奪い取ってどんな大人になるのでしょう。


その「努力」であれば個人的にもできるとおっしゃる方もいますが、
学校が場所を提供していないのに何処でやれっいうのかって話です。


「キャプテン」も前時代的な美談なのでしょうか?
この手の話に前時代的って言葉自体、ナンセンスな気がします。