涅槃は遥か先 

気になった事をダラダラと書いてみようと思っています。

サンタクロースって・・・

世の中クリスマスですね。

 

僕は無宗教だからクリスマスは関係ないとか

 

世の浮かれ騒ぐ人たちに異を唱えたいとか

 

そういうマインドでは無いのですがやっぱり特段何かしようとか盛り上がる気分でもありません。

 

少し前のハロウィンよりはどんな感じか理解ができるイベントですけれど。

 

 


そうは言っても幼少のころご多分に漏れずクリスマスには我が家にサンタクロースがやってきて、僕のニーズにストライクでは無いにしても当たらずとも遠からずなプレゼントを枕元において行ってくれるという事があった家庭で育っているので、我が子にも自然とそうしています。

 

 

今年は息子も中学生ですのでさすがに手渡しにしようかと思っているのですが、
なんとなく彼はほのかにまだ信じているのじゃなかろうかと訝しんでいます。

 

 

彼は比較的に理論的且つ現実主義的なところがある方だと思うのですがなぜ僕が、まさに夢見心地と言わざるを得ないサンタクロース伝説を信じているのではないかと訝しんでいるに至るかというと、そこには僕のある種過ちともいえるミスがありました。

 


彼が小学2年生頃にはサンタさんに手紙を書くという実にキュートな側面を持っていました。


そして、僕や妻のフィルターを通さずにサンタクロースなる人物とコンタクトしたかったのだと思います。


僕はその手紙に驚愕したものです。

 

 

A4の紙に鉛筆でいろんな質問と回答欄が用意された手紙でした。

彼が起きない様に静かにプレゼントを置く事も焦っていたのにたくさんの質問に答えなくてはならない!

 

しかも筆跡でばれてしまわない様に文字を書かねば・・・

というかサンタクロースって日本語を話すのだろうか?

ビジュアルは明らかに外人である。「好きな食べ物」の質問に「豆腐の味噌汁」と書いてはならない。

ボルシチ」なら良いのか?「ビーフシチュー」なら良いだろうか?そもそも肉を食して良いのだろうか?
そうなるとやはり「豆腐の味噌汁」は危なげない。
イヤ、ダメだ。

 

いろんな葛藤がありながらその質問を前にして、今にして思えば大きなミスを犯したのです。

大体人間というものはある事象に集中し過ぎると物事を俯瞰的に見れなくなるものです。
というか僕はそうなります。

 

 

小学2年生とはいえ、比較的カンが鋭く、誰に似たのか僕の息子とは思えない様な頭の回転の早さを見せる息子です。


その彼に「サンタクロースの正体を悟られてはならない。」という事ばかりに気を取られてしまったのです。

 

自分でもその事象のみに対しては意外と良いアプローチをしたんではないかと考えています。


まずサンタクロースの書く文章は、やはり僕自身が世界の公用語であろうと考えている英語である事を選択。

もちろん英語は良く解らないので翻訳ソフトで英訳します。
各質問に対するそつない答えを考えそれを翻訳ソフトで英訳して書くという手法でその危機を乗り越えました。


次の日、枕元に英語で返答があった手紙に気付いた彼はそれを読めと言ってきました。
そこもポイントだったのですが、僕は「英語なんて読めないよ。」と答えました。


その当時の僕はそれが完璧な対応だったと自画自賛していたワケなのですが・・・・

今から考えるとそのおごり高ぶった見苦しいテングの鼻をへし折ってやりたいものです。

 

彼の周りには気楽に英訳を頼める大人がいたのです。ピアノ教室の先生なんですが・・・海外(ヨーロッパだと思うのですが)に留学経験があって英語はもちろんドイツ語だかなんかそんな言語までを自由に操れる方です。

 

ちょうどその教室に行く事があったようで英訳を頼んだらしく僕の帰宅時には興奮していました。

 

その英文がデタラメでは無い確証。僕や妻ではこの文章は書けない、読めさえしない。

 

彼の頭の中でサンタクロース容疑者の最有力である僕や妻の完璧なアリバイ工作が完成してしまったのです。

 


彼が理論的且つ現実主義的であるがゆえに、サンタクロースの実在を信憑性のある事柄に進展させてしまったという流れです。

 

つまり、彼自身が自然に「サンタクロースはいないんだ・・・」という結論に達するに大きな障壁となりうる内容を作ってしまった。


そのままうやむやで今に至る・・・というワケです。

 


彼はその事についてどのように捉えているのか。
また、彼が理数系の脳を持っている事、比較的優秀である事を考慮に入れると、彼が成長していく中で「人知の理解を超える事というのは普通にある」という認識は良い事のように思えないのです。

 

 

 

ウチの妻はパッションで生きています。
大学生の時、仲間たち数人で心霊スポットに行ったりする事が流行っていた時があり、心霊スポットの帰りに2人でコンビニに寄ったら、
急に暗い顔になり今にも泣きそうな表情で「肩が重い・・・」と言っていた事がありました。

まあ、僕はかなり大笑いさせてもらいましたが・・・

 

 

そんな妻は今の彼の状態に対して、ボヤアっとさせておいて良い事だと言いました。
別に力いっぱい否定して本当はこうなんだという必要は無いというのです。

それはある意味正しい気もします。
夢があるし、ネガティブな内容では無いし。

 

 

 

しかし、しかしですよ?

 

彼は理数脳です。間違いありません。そして僕たち夫婦の子としては異常な程優秀です。今のところ。

 

自然で理想的な流れとすれば、進学校に進み理数系の工学部とかの大学へ行き、大企業なんかにエンジニアとして就職しちゃったりして、やりがいがあって楽しい人生を送っていくっていうような方向が良いのではないでしょうか?

 

 

エンジニアとか理数脳の人はとにかくどういう事なのか追及して理解するってことが結構重要なのではないか?と思ったりしています。


僕も技術職ですが、解らない事を解らないままにしておく人間は適性が無い。そうまで言ってしまうと語弊があるのかもしれませんが、
「なんとなく良くわかんないけど出来た!」って人は技術職に向かないと思うのです。実務上よく感じます。

 

 

「サンタクロースの件は良くわかんないけど、後の事は追及の手は緩めないぜ」ってなるもんかな~・・・と思うワケです。

 

 

きっと、ならんでしょうね・・・・

 

 

 

パッションで生きてる妻は良いのです。肩が重くなった理由について何かしら人知の及ばぬ力が働いていたと解釈しても良いのです。

 

だって、それを上回る感性があるのだから。

 

 

何も持たない僕は、何も持たない事の恐怖を知っているから、何かしておいた方が良いように感じてしまうものです・・・・

 

 

彼と僕は違うのにね・・・・

 

そうだ。僕らにはモンベルがある。

「アウトドアアパレル」というのか、僕は性能面はもちろん見た目も好きでプライベートの服飾系の買物はここ10年間はその手のモノばかりだと思います。

 

そういったものはなんだか海外製の物がカッコよく見えてしまったりしてついついお店でもノースフェイスとかパタゴニアとかマムートとかとか・・・値段の高いものがより良く見えてしまいます。

 

値段が高いものは当然性能が優れている。撥水性がすごいんだとか、防水透湿性が素晴らしいとか。

 

そういったスペック重視で見てしまうから当然高いものがお店でよく見えてしまうのは不可避では無いでしょうか。

 

しかし、同じ程度の性能であってもより値段の高いものが欲しくなっているというのはどう説明できましょうか・・・

何となく・・・何となくですが、コロンビアよりパタゴニアが欲しくなっちゃうし、さらにはパタゴニアよりアークテリクスが欲しくなっているような気がします。(あくまで主観的に)

 

これは、きっとネームバリューと言おうか、値段が高いっていう事で有名なメーカーの方が欲しくなっているという・・・ワケの解らない状態に陥っているのでは・・・

 

6年ほど前に大枚はたいて買ったパタゴニアのダウンセーター。気に入ってはいたし性能が著しく良くない訳ではないんですが。デザインが良いとか機能が良いとかよりも「高いんだから良いものだろう・・・」と買ったのです。

しかし事実はこの記事の通り・・・

http://getnews.jp/archives/161092

 

コイツを買った時はメーカー直営だかの日本人向けネットショップで結構な値段で買ったのですが、アングロサクソン向けには2/3以下の値段ですって・・・

まあ、シーシェパードみたいなおかしな連中にスポンサードしてるみたいだし、日本人にとっては敵対視すべき企業ではあります。どちらにせよ良いイメージは無いんです。

 

ただ。
ただ、この胸のロゴがあるヤツが着たかったんです。
それだけだったんですよ刑事さん・・・・

許してくだせえ・・・

 

 

年齢を重ね、見栄も少しづつ若かりしころの記憶に置き去りにできそうな今日此の頃。ついに日本人を小馬鹿にしているメーカーのダウンセーターはジッパーが壊れました。

 

 

 

そうだ!

僕らには、「モンベル」があるじゃ無いですか!

 

お金が無い学生の頃、登山用品店で見つけた格安に割引されたゴアテックス3レイヤーハードシェルパンツ。1万円しなかったと思いますが25年経った今も未だに使っている「モンベル」。


20年使っているキャップも「モンベル」。


傘嫌いの僕が普段から着るようになってしまったレインウェアも「モンベル」。

 

そうだ!僕らには、「モンベル」がある。

今ここで高らかに叫びます。

僕はモンベラーになる!

 

モンベル大好き!

モンベル買って後悔した事無いし、長く使ってもへたりづらいし、本当に優れた製品というのはこういう事なんじゃないでしょうか。

 

性能は申し分ない上に、海外のメーカーと比較すると圧倒的なコストパフォーマンス!

 

アークテリクス持ってたらカッコいいなあ・・・

とも思いますがね・・・

 

僕はこれからモンベルです!

 

 

親の心子知らず

「親の心子知らず」という言葉があります。
http://kotowaza-allguide.com/o/oyanokokorokoshirazu.html

 

 

僕の知っている人の息子で何が不満だったのか、ある時自分の車で遠くに行き、車内で練炭を焚き自殺した人がいます。

 

 

葬儀に出席しましたがその父親の落胆ぶりは凄まじかったです。

 

本当に心の底から、なんて親不孝なんだろうと思いました。

その息子は40近かったですが未婚でした。

 

世の中には結婚だけが「幸せ」ではないと、そのように言われる方がいます。

そういう場合も稀にあるのかもしれませんね。


読んでいてムナクソ悪くなるほど意見の違う方もいる事を覚悟で書きます。

 

 

99.99% 結婚をしなければ本来の「幸せ」になる事は少ないと思っています。
あくまで個人の見解と思ってもらって結構ですが、僕はめちゃくちゃ本気です。

 

僕には妻と息子と娘がいます。


ハッキリいって子供が生まれた時に・・・妻のおなかにいる事が解ったときかもしれませんが、知ってはいたけど本当にそんなものがあるのかなあなんて思っていたものが突如として「そういうの・・・ほんとにあるんだねえ・・・」と実感した事があります。

 

 

それは、「無条件の愛」というヤツです。

 

無条件。これはすごい言葉です。
条件が無いんです。


女性に・・・カミさんに惹かれた時、何かしら条件がありました。顔が好みだとかフィーリングが合うとかそういう条件です。


しかし、徐々にそれは無条件化されいつの間にやら無条件に近い状態になりました。
しかし、子供は違います。

 

もう、イキナリです。最初から無条件なのです。こんなにも絶対的な感情というものが本当に存在するのだという事を突如として自覚するのです。


今まで知っていた気がしているのに実感した瞬間に知らなかったって事を知る・・・・
なんだかワケが解りませんが。
知っていた気がしてたのに本当は知らなかった。
僕の大好きな映画「グッド*ウィル*ハンティング」に名場面がありますが
http://ameblo.jp/will3104/entry-11916962818.html

 

 

つまり、これを実感として得るには息子や娘の立場では足りない。


少なくとも、感情移入の段階では実感は得られないと思う訳です。

 

では、この「無条件の愛」が本当にあるという事を実感したらどのような思考に向かうのか。

 

 

自分の父母が自分に対して感じたであろう「無条件の愛」を想像するんじゃ無いでしょうか。

 

そして、今現在も両親が生きていて身近に接せられるなら、今まで気がつかなかった、その「無条件の愛」を実感する事になるんじゃないでしょうか。

 

そのプロセスでようやっと自分がここにいられるのに自分以外の大きな力が働いていたってことを実感するのでは無いでしょうか。

 

その上で、自分にもそう思える対象が出来たという事に奇跡的な感覚を覚えると思うのです。

 

 

それが、僕の考える「幸せ」という状態。

 

 

それに、自分が死ぬ事で両親はどのような地獄の苦しみを味わう事になるのかを想像する事が出来るようになる・・・

 

結婚しても妻を無条件に愛せない人もいるかもしれない、子供が出来ない人もいるかもしれない、子供が生まれても子供を無条件で愛せない人もいるかも知れない、無条件の愛があっても自覚できない人もいるかもしれない、無条件の愛を自覚しても親からの無条件の愛を感じられない人もいるかもしれない、両親の地獄の苦しみを想像できない人もいるかもしれない。

 

 

結婚してたって、僕の考える「幸せ」を感じられない要素がこれだけあり得るのです。
だから結婚は僕の考える「幸せ」には最低条件に近いのです。

 


極論かもしれないけれど、自殺した息子を想って地獄の苦しみを味わう父親の姿を見た時、自分の息子や娘が早く僕の考える「幸せ」を感じられる人間になる事を願わずにはいられませんでした。

 

矛盾について

我家には猫がいますが、彼女はずっと外で暮らしている為かもの凄く野生に近い生活をしています。

 

もちろん我家で飼っている自覚はあるので餌を与えます。
しかし、避妊手術を終えているので彼女の健康管理の為に少なめの食事制限をしているのです。

 

人懐っこい猫で名前をベタな「タマ」というのですが、呼ぶと「ゴロにゃ〜ん」と漫画のような鳴き声を出しながら走ってきます。

 

先日、ベランダの彼女のお気に入り昼寝ポイントの近くで向こうを向いて一心不乱にゴソゴソしていたので「タマ!」と呼びました。
すると振り向いた彼女の口元に赤い液体と鳥の羽が・・・

 


「ゴロにゃ〜ん」です。

 


鳥を狩って食べていた訳なのですが、平和ボケした僕にはその姿に2面性を感じずに居られませんでした。

 

愛らしい表情で僕の足元にスリスリしながら喉を鳴らす彼女と鳥を狩って羽をむしりながら骸を食す彼女。

 

一方でこんな記事を見て全く見当違いな、おかしな考えを持つ人もいるものだと考えたりする訳です。


http://jin115.com/archives/52101856.html

 

僕の住んでいる地域は田舎で山の麓なので熊の恐怖は会ったこと無いけど解ります。子供達の通う小学校の付近に熊が出たなんてニュースを聞いたら早く駆除してもらえないかと思うと思います。


「熊の生活圏を人間が奪っているのだから射殺は酷い」という論調のようですが。


じゃ、お前が、お前の家族が三毛別羆事件のように喰われてみろ・・・

 

こんな記事もあります。
http://maypat01.blog.fc2.com/blog-entry-17.html

 


・・・・・・
随分暇そうですね・・・

 

 

どうせ暇ならもうちょっと世の中のためになる事に時間を使いませんか・・・
と言ってあげたいですね・・・

 

発想がシーシェパードみたい・・・

 

「発情期ではない豚にまたがるのは強姦も同じ」

 


・・・・・・・

 

何者か知らんが思うに、強姦された事も発情期の豚だった事も無いだろうから何のたとえなんだ?実感できない事が同じく実感できない事と同じという言い回しは根拠が無い上にそれを発言する意味が解らない。


あまりにナンセンスすぎるコメントに絶句する・・・

 

 


子供向けの映画に「マダガスカル」というのがありますね。

(ネタバレありますよ)

 

 

 

 

ライオンとかシマウマとかキリンとかサイとかペンギンやリスザルみたいのがニューヨークの動物園抜け出すんだったかなんかでマダガスカルに行って、だんだん親友であるシマウマが食肉に見えてきたライオンが悶々とするんだけど、結局ペンギンたちの用意した寿司で代用して親友を喰らう事を避けるやつ。

 

いいんですか?魚はいいんですか?殺して食っても?

 

 

こんな事を宣う知性が欠落した方もおられます。


「家畜を殺すの反対!だから自分、ベジタリアンです!」

 

植物は生物ではないのですか?モノを喋らないし、感情も表さないけど完全にヤツら生きてますよ。畑に育つ植物を見れば手に取るように解る。

 

 

詰まる所。

 

私たち人間は・・・いや、生のある者は全て他の生き物を殺戮し、取り込む事でその存在を維持していると言って言い過ぎでは無いと思います。

 

ウチのタマも本能か何か解らないけど彼女が鳥やネズミを狩るのは彼女が生きるため、では無いにしても欲求を満たすために彼女にとって実に健全な当たり前の事なのです。


熊が畑を荒らす事、三毛別羆事件に見られる人里に降りてくる事も、それを駆除する人間もこの場所で生きて行くため、生存競争です。命がけ。


豚にまたがる事やそれに反対する事は・・・まあ、ホントどうでもいい気しますけど。


なんにしても僕が思うのは、カッコ付けなくていいのです。


自分が生きる 


その事に邪魔になるものはどかしながら進めば良いのだと思います。


豚を食べたいから殺しているのを知っているけどその命に感謝しながら食べる。

 


人間は死ぬ事に向かって懸命に生きている矛盾の塊のような存在だと何かに書いてありました。


存在自体が矛盾なのです。


それに折り合いを付ける必要があるのなら付ければいい。


開き直って、でも僕の進むその足下に転がる無数の骸の存在を感じながら生きて行ければ良いのじゃないでしょうか・・・

パンク・ロック

パンク・ロックが大好きです。

 

でもパンク・ロックって、何をもってパンク・ロックなのかという質問に即答で端的に答えられる人ってそんなに多く無いと思います。好きな人各々にいろんな意見があって、僕は友人とその話だけで一晩激論した経験があります。

 

それだけ、パンク・ロックというものを定義する事って難しいんじゃないかと思います。

 

だからもうなんだか解んないんだけど、「大好き」なんです。


僕の中では、英、米、日、独、もう国籍関係無し、言語も関係無し。
でも、好きなバンドは英が多い気もします。米も日も多いですけど。


セックス・ピストルズラモーンズ、クラッシュ、デュセンデンツはもちろん、ジョイ・ディビジョンとかスミスとかのポスト・パンクと呼ばれるバンドも、ニルヴァーナとかパール・ジャムとかのオルタナティヴと呼ばれるバンドも、もちろんランシドとかNOFXとかメロコア系もみんな大好き。


あれ?アメリカ6のイギリス4か・・・じゃあ、イギリス派だと思ってたけどアメリカ派なのかな・・・というパンク好きあるある・・・

 

かのセックス・ピストルズが金の為に再結成したとうそぶいた時、ジョン・ライドンが言ってました。セックス・ピストルズが現代にいたら、グリーン・デイやオフ・スプリングみたいな事にはならないって。


じゃあどうなってたってんだ・・・金の為に再結成したくせに・・・


どっちも(セックス・ピストルズも)最高じゃねえか。


大体、あの方は言ってる事と考えてる事が同じじゃないことが多いです。
ピンク・フロイド嫌いなんて言ってたのに実は仲良しだったり。

 

説得力が全然ないところなんかが、パンクっぽいなあ。なんて思うワケです。

 

あくまで広義に、すごく稚拙で青臭いっていうような感覚が核にある気がします。

 

一説には、パンクというのは音楽性というよりは、哲学的な側面を多く含んでいると・・・。

 


・・・ふむ。


解ったような解らんような。よく「アイツはロックだな。」なんて反骨精神むき出しの人に言ったりしますが、正確には「アイツはパンクだな。」ですよね。きっと。

 

 

ロックの定義についてもいろんな意見があるでしょうが、僕の持論を展開させてもらえるならば、「ブラックミュージックの白人的解釈」と声高らかにいわせてもらいたい。


ブルースの白人的解釈。ジャズも然り、ラップも然り。だから、エミネムなんて超ロックです。僕的には。

と、言う事は白人がカッチョいい音楽を取り込んだ時点でロックになるというワケの解らない状態になってしまい、白人じゃない我ら日本人がやるのはロックじゃないなんて支離滅裂な結論になっちゃうからヤメです。

 

というか、そういう人種的な感じじゃなくって、そもそもブラックミュージックの特徴って即興性にあると思うのです。


ブルースもジャズもラップも即興でどんだけできんの?って音楽じゃないですか。
白人が開発してきた音楽はより良く練られた、修練された、熟考された音楽が多いんでは無いでしょうか。いまいち、クラッシックくらいしか思いつかないところがありますが。


でもやっぱり得意不得意があるから黒人は熟考するより感覚的な即興的な音楽がすごく良くて、白人はその場で考えるよりよく練られた、熟考された音楽がすごく良い。


きっとロックはそのどちらの側面も必要でどちらの側面を求めても良い、中間的なジャンルとしてその存在意義を確立しているのでは?

 

という意味での「ブラックミュージックの白人的解釈」と言いたい訳なのです。

 

 

パンク・ロックとは・・・

 

 

アナーキーなマインドを持ちつつ、ボーダレスな音楽」とすればあんまり外れてないでしょう。

 

とにかくとても好きなのです。

 

挑戦する事。

はじめてブログなるものを書いてみています。

 

僕としては、その時に思った事や気になった事を何かしらアウトプットしてみたく、始めてみた次第です。

 

そんな感じなので非常に・・・非常に、ひとりよがりなモノになる事請け合い。

 

という訳でどなたかに読んでいただけるもんなのかも解らず書いておる始末です。そのため読んでいただけた方が気を悪くされる場合もあるかと思いますが、どうかご容赦ください。

 

 


僕はNBAが好きでシーズン中はよく試合を見ます。

 

今はオフ・シーズンなのでバスケットの試合を見る事に対する「飢え」のようなものさえ感じます。

 


僕は中学生の時バスケット部に入部して3年間頑張ったのですが高校は地元では全国クラスの私立だったのでついて行けないと思いバスケット部には入部しませんでした。
時は、スラ○ダンク連載まっただ中。中学時代にはバスケットをしていなかった友人がその全国クラスのバスケット部に入部しました。

 

正直な話。僕は「つづけられるワケが無い」と思っていました。

高校生活の間、いつもどこかでその彼に「まだやってんだ・・・どうせ試合にも出られんだろうに・・」と哀れみの気持ちすら抱いていました。
そんなカッコわりいことやめときゃ良いのに、と。

 

でもその彼は見事に3年間バスケット部でやりきりました。

 

3年生の引退の時、彼は試合に出るどころかユニホームに袖を通す事もできなかったと嘆いていましたが、実に晴れやかな良い笑顔をしていました。

 


僕は、その顔を見ながら完全なる敗北感を感じずにはいられませんでした。

 

 

彼は挑戦していた。
僕はやる前からあきらめていたけど彼は戦った。

 


僕は密かにそしてはっきりとこういう自分ではダメだと学びました。

 

今でも、挑戦する事が怖かったり億劫だったりする時、彼の顔が脳裏をよぎります。本人には言ったことは無いけれどあの敗北感は常に、「またあの思いをするぞ。良いのか?」と問い直してくれます。

 


僕の息子は今、小学生なのでミニバスのチームに入っています。

楽しそうにやってはいるのですが、試合を見に行くとお世辞にもあまり強いチームでは無いので負けっぷりがとても良く、反省点ばかりが目につきます。

 

ついつい、あーだこーだと文句を言いたくなります。

 


自分には全国クラスだとしても、ただ練習について行く事すら期待していないのに息子には大きな期待を寄せている。

 

 

そんな事を考えていたら、ふと気づきました。

 

高校3年生の時、彼に気づかされた事の本質に、僕は未だにたどり着いていない。

 

息子がNBA選手のようにプレイする事が重要なんじゃなく、彼のように戦える、挑戦できる事が重要なのに・・・

 

だとすれば、今の時点で結果にばかり焦点を当てて、アレがダメだったとかコレが良く無いだとかダメ出しをしまくる行為こそが息子が萎縮してしまう事に繋がって、結果として「カッコわりいことはやらなきゃ良いのに」的なお利口気取りのただの腰抜けに成り果ててしまうのではという危機感がふつふつとわいてきました。

 

息子の将来を考えると、僕の経験では自分を知ったような気になって限界点を自分で設定するようになってしまったら、前に進む事ができなくなってしまう。

 

 

で、どうするのが良いと考えたかというと・・・

 

 

誉める・・・

 

 

できない事を言うのではなく、出来ることを誉める。

 


根拠の無い(あっても良い)自信を持たせるという結論。

 

 

自分の事を知らないんじゃなく、
可能性を信じられる男になってほしいなあ・・・